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![]() 根成柿の里 |
文学者、宇野浩二(1891〜1961)は、1919年(大正8年)、「蔵の中」で文壇にデビュー、「苦の世界」など、独特の語り文体で人情の機微を描き、作家としての地位を確立。 広津和郎、芥川龍之介、江戸川乱歩などと親交しながら、“文学の鬼”とよばれるまでに作家活動に専念し、「思い川」で読売文学賞を受賞、芸術員会員に選ばれ、芥川賞の選者としても活躍しました。 宇野浩二は、天王寺中学を卒業後、早稲田大学の英文科に入学するまでの間、母“キヨウ”が働いている大和高田市南端の根成柿で半年ほど暮らし、その後、大学に入ってからも、たびたび、母のいるこの地をたずねています。 特に、祖母“里勢”が、母をたよって、宇野浩二とともに、この地にやってきますが、突如、祖母の容態が悪くなり、この地に来てすぐなくなったことから、祖母は、根成柿に葬られることになって、宇野浩二にとって、ここ、根成柿は忘れられない土地となります。 宇野浩二の代表作「枯野の夢」の一節には、次のように、当時の天満村根成柿のようすが書かれています。(文中「高天村」は「天満村」のこと) ![]() 住んでみると、高天村は、自然人情ともわるいところではなかった。まづ自然について述べると、葛城郡はかなり景色のいい所だった。おなじ大和でも、北の方の郡山や法隆寺あたりのような平凡な退屈な平野でもなく、南の方の吉野あたりのやうな狭くるしい山間でもなく、ちゃうどその二つをつきまぜて造化が工夫を凝らした所と云つてよいくらゐだ。例へば、高天村にもっとも近い高天山に登って四方を見わたすと、あたかも海の中にあまたの島嶼(とうしょ)が散在してゐるやうに、手頃な高さの山や丘が、箱庭の景色のやうにならんでゐる。その中で、もつとも大きくもつとも名高いのが、畝傍山(うねびやま)、天香具山(あまのかぐやま)、耳成山(みみなしやま)で、その間を萬里の長城の模型のやうに見える葛城川の堤が縫うてゐる。さうして、それらの小山や丘を保護するかのやうに、三輪山、高見山、三峰山、龍門岳、吉野の山山、金剛山、葛城山などの大きい高い山山が、遠く近く取り巻いてゐる。それから林だ。林の木は、ほとんど櫟(くぬぎ)であつたから、秋になると、ことごとく紅葉した。殊に、彼が高天村の生活にいくらか慣れて散歩をはじめた頃はそれがもつとも見事であつた。彼が好んで登つた高天山の頂上には他のどの山にも見られない廣い草原があつて、その草原の中央にかなり大きな池があり、その池の周囲には櫻の木が植わつてゐた。いふまでもなく、秋になれば、その櫻の木木も、みな紅葉した。 (写真は宇野浩二の母の手紙) 宇野浩二の作品には、「枯野の夢」の外にも、「若い日の事」「高天ヶ原」「思い出の記」などに、当時の天満村根成柿の状景がストーリを変えながらでていて、その頃の風土がよみがえるように描写されています。
![]() 更に、水上勉氏の「宇野浩二伝 上・下」には、この間の事情が詳しく紹介されて、若き日の本市根成柿での宇野浩二の心境が手に取るようにわかるよき手引書といえます。 1995年(平成7年)、根成柿のふれあい公園の一角には、宇野浩二の文学碑が建てられ、本市をおとずれる宇野浩二ファンには、うれしい知らせとなりました。 文学者宇野浩二が親しんだ、根成柿は、今も、往時のおもかげを色こく残す“文学の里”といえます。(写真は水上勉著「宇野浩二伝 上・下」) | |








