観光ガイドブック 高田河畔の桜 不動尊 龍王宮 桜華殿 奥田蓮取り行事 天神社 静御前記念碑 天満神社 専立寺 名称寺

職員のオススメ

イベント情報
2016/02/01
竹内街道・横大路(大道)活性化プロジェクト
2016/02/26
大和高田市マスコットキャラクター みくちゃん
2016/06/17
ぶらり高田さんぽ
2016/04/08

開催中のイベント

名所 高田千本桜
奥田蓮取り行事
高田活活(いきいき)まつり
高田おかげ祭り
地場産業フェア&やまとたかだ元気ウィーク
マスコットキャラクター みくちゃん

大和高田を見る

大和高田八景は、平成14 年、市民投票による選定募集をおこない、多くの投票によって「大和高田八景」が選定されました。
また、市内のすべての景観を対象とした「大和高田八景作品展」を開催しています。
平成17 年度(第4 回)からは「市内のすべての景観を対象」として八景にこだわらずに広く作品を募集しております。

  • 高田川畔の桜
    高田川畔の桜
    昭和23 年市制を施行し、それを記念して、市民のボランティアにより高田川に桜が植樹されました。千本桜として内外に知られ、桜の咲くころには多く人々が訪れます。
    市内築山~東中まで、約2.5km。
  • 大中公園(桜華殿)
    市の中央部位置する、緑豊かな公園と池に浮かぶ能舞台。
  • 花火(夏まつり)
    毎年、市内の夏祭りでは風物詩として花火が打ち上げられます。
  • 蓮取り行事と捨篠池の蓮花
    毎年7月7日、奥田の捨篠池で執り行われる伝統行事と、その池の蓮花。吉野蔵王堂で行われる「蛙とび行事」と連携した「蓮華会(れんげえ)」の行事。
    「県無形民俗文化財」指定。
  • 専立寺と寺内町
    1600年創建といわれている「専立寺」通称・高田御坊とその寺内町。古い街並みが周辺に残ります。
    (大和高田市内本町周辺)
  • 総合公園
    温水プールやテニスコートなどを有する本格的な多目的公園。平成14年には、芝生広場が整備されました。
    (大和高田市大字出周辺)
  • 近鉄大和高田駅前風景
    21世紀のまちの玄関口にふさわしく、リニューアルした駅舎と駅前広場。 2002年には「近畿の駅100選」にも選ばれました。
    (大和高田市北本町)
  • コスモス畑(市の花コスモス)
    9月から10月にかけて、市の花コスモスは美しい花を咲かせ、初秋の風にそよぐ美しい景観を見せてくれます。
    (市内各所)

観光マップ

大和高田市観光マップ

  • 1.高田千本桜
  • 2.奥田蓮取り行事
  • 3.西宮神社
  • 4.不動院(大日堂)
  • 5.専立寺
  • 6.野口雨情歌碑
  • 7.義経の七つ石(春日神社境内)
  • 8.静御前の遺跡
  • 9.天神社
  • 10.高田城址
  • 11.太神宮の高燈籠
  • 12.龍王宮
  • 13.名称寺
  • 14.弥勒寺
  • 15.築山古墳
  • 16.横大路
  • 17.長谷本寺
  • 18.藤森環濠集落
  • 19.天満神社
高田千本桜 高田川畔
高田千本桜
3月下旬から4月上旬にかけて、大中公園を中心に高田川の両岸南北2.5キロメートルにわたり、見事な桜のトンネルが続くよ。夜になっても、夕闇とともにぼんやりとライトアップされた夜桜を見物する人の波は絶えることがなく、奈良県を代表する桜の名所となっているよ。
所在地:高田川畔
奥田蓮取り行事 捨篠池(大字奥田)
奥田蓮取り行事
毎年7月7日、七夕の日、奥田の捨篠池(すてしのいけ)において「蓮取り行事」が行われるよ。室町時代から連綿と行われてきた吉野山金峯山寺(きんぷせんじ)における「蓮華会(れんげえ)」の一連の行事で、奈良県の無形民俗文化財に指定されているよ。
所在地:捨篠池(大字奥田)
西宮神社 曽大根
西宮神社
創立は承平4年(934年)と伝わる古社で、俗に「曽祢(そね)神社」ともいうよ。大正2年に神明神社と中宮神社を合祀して村社に指定されたんだよ。境内には太神宮常夜灯(正徳3年(1713年)9月吉日)の石灯篭があるよ。真っすぐに伸びた参道が印象的だよ。
所在地:曽大根
不動院(大日堂) 本郷町8-15
不動院(大日堂)
不動院(大日堂)は、聖徳太子の創建と伝わっているよ。文明15年(1483年)、高田城主当麻為長が建立した本堂は、大正14年に国の重要文化財に指定されているよ。6月から7月にかけては、境内のあじさいが見ごろを迎えるよ。
所在地:本郷町8-15
専立寺 内本町10-19
専立寺
専立寺は、「高田御坊」といわれ、慶長5年(1600年)の創建だよ。豪華な彫刻を施した表門、太鼓楼(たいころう)は、平成8年に市の有形文化財に指定されているよ。庭園には、季節ごとに花しょうぶ、あじさい、蓮花などが咲き、訪れる人々の心を和ませてくれるよ。
所在地:内本町10-19
野口雨情歌碑 内本町10-19
野口雨情歌碑
野口雨情は、大正から昭和にかけて活躍した詩人で、代表作に「七つの子」「赤い靴」があるよ。「高田小唄」を作詞し、昭和12年にはレコード化もされているよ。表門のわきの歌碑にある「高田御坊の穭(やぐら)の太鼓叩きゃぼんと鳴りぼんと響く」は、この「高田小唄」の一節だよ。
所在地:内本町10-19
義経の七つ石(春日神社境内) 大中261
義経の七つ石(春日神社境内)
古来当麻もうでの道として知られた当麻街道沿いに鎮座する春日神社の境内に、七つの石が置かれているよ。源義経一行が兄の頼朝に追われた際に静御前の母親である磯野禅尼(いそのぜんに)が住む礒野の地を訪ね、この石に腰掛けて一休みしたと地元の人々の間で伝承されているよ。
所在地:大中261
静御前の遺跡 大中183
静御前の遺跡
礒野(いその)村の古地図には、静御前の遺跡として「衣掛けの松」「住居の跡」「静御前の塚」が明示されているよ。衣掛けの松、住居の跡は、その跡をとどめないけど、ある一角だけは静御前の塚として人々の間で伝承され、静御前の生涯を語る記念碑が大中公園に建てられているよ。
所在地:大中183
天神社 三和町2-15
天神社
天神社の創建は古く、社伝によると古代までさかのぼり、棟木には「1222年(貞応元年)當麻宗正」の名がみえるよ。その後、今日まで造替が続き、高田一円の氏神として親しまれているよ。
所在地:三和町2-15
高田城址 旭北町
高田城址
高田城は、約150年間にわたり戦国武士が群雄割拠した時代に重要な砦としての役割を果たしたよ。今、この地には、常光寺に隣接して榎の大木とともに、石碑が建てられ、往時をしのばせているよ。
所在地:旭北町
太神宮の高燈籠 旭北町
太神宮の高燈籠
大和平野を東西に貫通する伊勢街道を東から大和高田に入る位置に、高燈籠が建っているよ。往時、旅の道しるべとして明かりが入れられたもので、伊勢太神宮をめざす「おかげ参り」の年などは、大群衆となってこの道を通ったといわれているよ。
所在地:旭北町
龍王宮 片塩町
龍王宮
龍王宮は、石園坐多久虫玉神社(いわそのにいますたくむしたまじんじゃ)といい、市内で唯一の延喜式内社だよ。本社は安寧天皇の片塩浮孔宮跡(かたしおうきあなきゅうせき)と伝承され、付近からは土器、木棺、埴輪、七鈴鏡などが多数発掘されているよ。
所在地:片塩町
名称寺 曽大根
名称寺
名称寺は、本願寺第三代覚如宗主(かくにょそうしゅ)が百済大寺の跡に和州百済二條道場として建武2年(1335年)に建立し、康正元年(1445年)、百済から現在の曽大根(そおね)に移築したよ。 春には、つつじの花が美しいことでも知られているよ。
所在地:曽大根
弥勒寺 土庫
弥勒寺
弥勒寺(みろくじ)の本尊である弥勒仏坐像は、平安時代の半丈六(はんじょうろく)をはかる大型の像で広葉樹の一材により彫り出されているよ。膝頭も含めて一材より彫り出す手法が特徴的で、平成24年9月に国の重要文化財に指定されたんだよ。
所在地:土庫
築山古墳 築山
築山古墳
古墳最盛期5世紀ごろ築造された前方後円墳だよ。市域の古墳群のうち最大のもので、長さ210メートル、水濠を加えると261メートルになるよ。武烈天皇陵と伝えられているけれど、被葬者はいまだ特定されていないミステリアスな魅力をもった古墳なんだよ。
所在地:築山
横大路
横大路
竹内街道とともに大阪府と奈良県を東西に結ぶ横大路(よこおおじ)は、日本書紀の推古天皇21年(613年)の条に「難波(なにわ)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記された「大道」のルートと重なることから、日本最古の国道(官道)と呼ばれているよ。
長谷本寺 南本町7-17
長谷本寺
横大路に面する長谷本寺は、寺伝によると和銅・養老年中(708年~715年)南都の大満の開基と伝えられているよ。また、本尊の十一面観音菩薩像(奈良県指定文化財)は、長谷寺本尊と同木と伝えられ、長谷寺型観音として有名なんだよ。
所在地:南本町7-17
藤森環濠集落 藤森
藤森環濠集落
大和平野中心部には、濠(堀)に囲まれた、いわゆる環濠集落が多くあるよ。濠には水をたたえ、水利と村落防衛のために造られたと考えられているよ。大和高田市に残る有井、池尻、松塚、土庫、岡崎、礒野などの環濠の中でも、この藤森の環濠がよくその姿をとどめているよ。
所在地:藤森
天満神社 根成柿614
天満神社
菅原道真公を主神とし、八幡社ほか二社の境内社を持つよ。創設の由緒は数説あるけれど、この神社に残る古い棟札には、永禄7年(1564年)越智家高とあるよ。また、記録によると建武2年(1335年)の燈籠が社頭にあったといわれているんだよ。
所在地:根成柿614

大和高田を知る

市の歴史と遺跡
先史時代~現代にいたる市域とその周辺の変遷を、遺跡とともに紹介
■ 先史時代
大和高田市の地形は、奈良盆地の西南隅に位置し、葛城山麓の扇状地が新庄町(現:葛城市)方向から高田に。そして、二上山麓から流れた扇状地が高田を経て曲川(橿原市)にいたっています。

周辺地域である二上山麓周辺に人々が住み着いたのは、紀元前二万年前頃だと考えられています。この地域は、石器を製作するに適した「サヌカイト」の原産 地であり、多くの石器が出土しています。しかし、大和高田の周辺地域は、先述のとおり、扇状地に位置しており、高田川・葛城川の両河川の河道が安定してお らず、人が住む環境ではなかったと思われていました。

しかし、近年、池田遺跡の発掘により、多数の出土品のなかで、後期旧石器時代から弥生時代中期までの約2万年の期間に作られた土器、石器が3万点以上出 土し、なかには関東地方や瀬戸内地方のものもあり、数万年前からこの地は東西の人々の交流が盛んだったと考えられます。

大和高田市の地形は、奈良盆地の西南隅に位置し、葛城山麓の扇状地が新庄町(現:葛城市)方向から高田に。そして、二上山麓から流れた扇状地が高田を経て曲川(橿原市)にいたっています。
■ 縄文時代~弥生時代
本市には、奈良県遺跡地図による指定が約100か所以上あり、その内の4分の1ほどが、発掘調査報告されています。縄文から弥生時代は、高田川・葛城川の周辺地域は、水田の耕作に適した地域であったと考えられ、今後の調査で、新たな遺跡が発見される可能性があります。
池尻遺 方形周溝墓、河道、井戸、堀立柱建物。縄文土器・弥生土器・古式土師器・須恵器等出土。 縄文晩~中世
礒野北遺跡 大和高田市立病院建設地。縄文時代の住居跡。石器・古式土師器・瓦質土器等出土。 縄文~平安
柿ノ内遺跡 堀立柱建物、河道。縄文土器・土師器・須恵器等出土。 縄文後~中世
有井遺跡 有井集落の東南に位置する灌漑用溜め池を中心とした弥生中期?後期の遺跡。昭和8年5月に発掘調査。壺・高杯・石斧・土錘など出土。集落跡と考えられる。 弥生中~奈良
西代遺跡 大和高田市の西端、西代の集落南側の溜池から出土。土器及び土器片。  
出屋敷遺跡 西代遺跡の東方の出屋敷池より石斧や石鍬が出土。  
神楽遺跡 近鉄大阪線北方。溜池より有孔砥石が出土。  
三倉堂遺跡 高田市駅(近鉄南大阪線)南方の溜池より、古墳時代後期の木棺と同時に弥生土器片が発見された。 弥生前~中世
藤森遺跡 集落跡。弥生土器、須恵器等出土。 弥生前~古墳後
■ 古墳時代~中世
弥生時代後半ごろになると、米作りの規模によって貧富の差が生まれ、支配するものと支配されるものとが生じた。これらの集団が集まり、村やクニへと発展していきました。そして、小国家群が併立し、有力豪族の力により国家へと統一なったと考えられています。 大和高田の地域は、奈良県内でも有数の古墳群を形成している「馬見丘陵古墳群」の南端にあたり、近年、公共施設の建築にあたって、全国でも珍しい埴輪(武人形埴輪、盾持ち人埴輪)が出土しており、今後も新しい発見が期待されています。

中世には、多くの環濠集落が形成されました。とくに、大和平野の中心部には濠(堀)に囲まれた集落が多い。水利と村落防衛のために造られたと考えられます。大和高田市内にも多くの環濠集落が残っているが、水利の変遷や住宅開発などにより姿を消しつつあります。
中世、大和高田市一帯は「葛下郡」とよばれ、二千町歩を超える奈良興福寺一乗院平田荘の荘内にありました。
室町時代には、当麻高田氏によって「高田城」 が築城されます(伝・1432年)。1580年、織田信長の破城令によって取り壊されるまで、約150年のあいだ大和武士としての勢力をふるいました。当時の高田城は絵図から約二町四方の広さで、正面を西に開き、東を搦め手(からめて)として堀の中に二重の城壁で囲まれた平城であったとされます。

慶長年間(1596~1615)には花内川(現:県道5号線・通称中央道路で旧:高田川) の西側に寺内町が作られました。この地に有井の正行寺が進出したことから始まります。その後、正行寺は有井に帰ってしまったため、慶長5年(1600年) 西本願寺12世准如によって御坊(専立寺)が創建されました。その門前に桑山藩が施策として商人を近郊から集めて商業の町として発展させていき、綿花の取引を中心に発展していきます。「商工業のまち・大和高田」への歩みがこの時代から始まっています。
伝説・民話
高田にまつわる伝説や民話

本文は、改訂「大和高田市史」から引用しました。 赤色文字の大和高田の民話は、伝説を絵本にして発行しています。(書籍販売を参照) 大和高田市のホームページにも「大和高田の民話」の一部が登載しています。
楠の霊木 むかし、江州(滋賀県)に大きな楠があった。光をはなってよい香りをしていたが、大雷雨にあって大津の里へ流された。それが流れ流れて大和の新庄まで廻転移動してきた。
聖武天皇の御夢に、この木のことがあらわたので、道慈という僧に命じて、霊木を加持させ、仏土稽文会主勲(ぶつどけいぶんかいしゅくん)という仏師に十 一面観音の聖容を彫刻させられた。そしてその末木で作ったのを初瀬の長谷寺へ、本木で作ったのを長谷本寺(大和高田市南本町)に納め、中木で作ったのを北 花内新庄町の観音寺へ、残り木は大和海知の長谷寺、鎌倉の長谷寺へ観世音菩薩として安置されたという。
南本町
長谷本寺
奥田蓮池のひとつ目の蛙 役行者の母トラメ(刀良売)が奥田の蓮池 で病気を養うているとき、夏のある朝、トラメが池の中にまつってある捨篠(すてしの)神社に詣でると白い蓮の花が咲いていて、葉には金色に光った蛙がい た。トラメは1本の篠萱(しのかや)を引き抜いて、蛙に投げると、蛙の目にあたって片目になった。池の中ににげた蛙は、もとの土色の蛙となって浮いてき て、五色の露も消えてなくなり、一茎二花の蓮も、もとの蓮になってしまった。しかも池の蛙はそれから一つ目になった。トラメはそれから重病になり四十二歳 で死んだ。母をなくした役小角は発心して修験道をひらき吉野山にわけ入り蔵王権現をあがめ、蛙を祭って追善供養をした。以来、毎年七月七日に吉野の山伏が 行者堂に来り、香華を献じ、蓮池の蓮180本を摘み、吉野山から大峰山間の沿道の堂に供えている。(絵本:大和高田の民話「捨篠池の一つ目蛙」) 奥田捨篠池
奥田
捨篠池
役行者の母の墓 役行者の母は、 いまの奥田の善教寺のあたりに住んでいたのである。それで土を盛った墓がこの町の北、秋吉と奥田との間にあって、もと木の墓標が立ててった。はじめ二坪ほ どであったが最近は石塔が立てられて四坪ほどに大きくなった。役行者の両親にはじめ子がなかったので、毎日神仏に向かって子供を授けて下さるようにお祈り をすると、ある日、母が天から金のドッコ(独鈷)がおちてきてそれを飲んだ夢をみた。それからはらんで子ができた。それが役行者であった。いまの行者堂 のあたりに住んでいたといわれている。 秋吉刀良売の墓
秋吉
刀良売の墓
役行者産湯の井戸 奥田の善教寺の 本堂前の右側、つまり北門を入ったすぐ左側にサクラの木がある。もと役行者産湯の井戸の跡という立札を建ててあったが今はない。この辺りに井戸があり、 役行者の母が産湯の水を汲んだところといわれている。役行者の母トラメはこの寺の境内にすんでいたといわれている。
舒明天皇の六年(六三四)正月元日、捨篠神社にトラメが安産をいのっていると、ふしぎや池の中からホラ貝のふえの音が聞こえてきた。姙褥の体に出産の近 いのをさとって、かたわらの井戸水をくみ口をすすぎ、ふたたび神さまを拝んで家に帰ると、たちまちに一子が生まれた。角麿という父の名の一字をとって小角 (おずぬ)と名づけた。このときの産湯は、今、善教寺にある古井戸だといわれている。 
奥田
奥田
不動院の鐘 むかし、本郷の 不動院に鐘があった。年貢の犠牲になって郡山の高田口の寺へ売られた。するとそこの和尚は毎晩のようにふしぎな夢をみた。「ここから高田の不動院が見えな いから、もっと高いところへ移してくれ」と強要した。鐘は道具屋の世話で山城の加茂の高田へ売られた。するとここでも和尚は夢をみた。「高田はよかった が、だんだん遠くなり奈良の山がさえぎって大和の高田の見えないのは残念、もっと高いところへ移してほしい」というので、和尚も薄気味悪くなり檀家に喋っ て、鐘銘を削り取って供養することになった。魂をぬかれた鐘は、ずんべらぼうになって、ならすとよい音をひびかせるようになった。
(絵本:大和高田の民話「故郷恋しと泣いたつり鐘」)
本郷町
大日堂(重要文化財指定)
有井の弘法井戸 有井町にある。磐園(いわその)小学校の西南の方、道路に面している。通称は「弘法井戸」で弘法大師が掘ったと伝えられている。井戸は石造枡形の井筒があり木製のフタをしている。小堂を設けて保存している。

清水井戸弘法大師御詠歌
「ありがたや清きわき出しかぢの水こうぼうだいしはあらたなりけり」

 弘法大師の有り難い井戸があるということでこの土地(むら)のならすとよい音をひびかせるようになった有井とした。道は南北に走っているが、井戸の西方に「道場」という地があって弘法大師が建立した仏堂があったと伝えられている。
(絵本:大和高田の民話「水がわいた」)
有井
有井
雷のおちない寺 むかし、奥田の善 教寺の井戸に雷がおちた時、そばで水をくんでいた人が、井戸にフタをし、雷をばとじこめてしまった。困りはてた雷が「もうここへは落ちないからフタをあけ てくれ」とたのんだので、フタを取ってあげると、雷は「ここへ落ちるまい」と約束して天へ昇ったという。それでこの寺の山号を興井山と名づけたという。 奥田
雷の落ちないところ 神楽町に八頭神 社があった。これは後に勝手神社に合併してしまった。合併するまでの、むかしのことだが、この付近に雷がおちた。村の人たちが、金だらいをさげて遠まきに してかこんだ。そして金だらいで雷を押さえた。雷は「ふたたび、ここにはおちない」と誓ったので、村人は相談の上で、その雷をゆるしてやった。それから神 楽には雷がおちないという。これと同じ伝説は横大路の西福寺にもある。(絵本:大和高田の民話「つかまえられた雷」) 神楽
カヤドウ(茅堂) 田井と勝目との中間に塚がある。笹が生えていて古墳のようであるが、方形の石塔もあり仏像が刻まれており、明治のころに鋳仏も出ているので地名の茅堂から堂跡とおもわれる。ここはむかし嫁入りが通らなかったという伝説がある。
(絵本:大和高田の民話「花嫁の通れない道」)
勝目
勝目
吉井の流れ地蔵 住吉川が洪水したとき、石地蔵が一躯流れついた。村人が見つけてこれを祀った。これが吉井地蔵で、子どもの病気には霊験があるといわれている。この付近を地蔵前といっている。
また葛城川が出水してとき、東の堤防に石地蔵が引き上げられた。線香の火で口もとをかわかしてまつって、これを「歯病地蔵尊」とよんでいる。
(絵本:大和高田の民話「川流れ地蔵さん」)
吉井
曽大根のサイカチ 曽大根の南の端 の川岸にサイカチという大木がある。夏に黄白色の花が咲く。むかし、この近くを通ると小蛇が出てきたのでカゴでよけようとしたら、たちまち大きな蛇になっ て襲いかかってきたので家に逃げて帰って、その夜から高熱で臥したという。またある人が、このサイカチの根を切ったところ二、三日して急に死んだという。 いま白竜大神をまつって神慮をなぐさめている。
(絵本:大和高田の民話「さいかち娘」)
曽大根
曽大根
八百屋お七 井原西鶴の「好 色五人女」にかかれている悲恋の女、八百屋お七の物語は、もと高田の本郷に起こった事件を、江戸に移し替えたという言い伝えがある。江戸の方の話は、天和 二年(1682)十二月二十六日未(ひつじ)の下刻(午後三時)牛込の大円寺から火事があり、そのとき、お七一家は焼け出され、円乗寺に仮寓した。このと き、寺小姓の山田佐兵衛と契り、のちに、吉三郎にそそのかされて、佐兵衛に会うために放火したということになっている。年もあらたまり、「八百屋の一人娘 が火をつけた」といううわさが立ち奉行所は、お七なる娘を召し捕らえて、放火の一さいを白状させた。放火犯は火あぶりの極刑の罪に服した。それが翌三年の 三月二十八日、お七は、わずか十六であった。お七のあわれな最後に現世の望みを失った吉三郎は、ほどなく出家して高野山へと仏の道をたどっていったとい う。小石川の円乗寺にお七の墓と碑がある。江戸の女として歌舞伎に、文楽にうたいあげている。
こちらの高田の方は常光寺には、お七の数珠を秘蔵し、その親玉には「享保十年(1725)十月十四日しち菩提」の銘がある。同寺の享保年間の過去帳には 死刑囚三人を追悼した記録も残されており、その中に「しち」という名が見える。また、八幡宮の西側には、お七川が流れ、この水をぬると、早く治るという言 い伝え知る人も多い。「本郷」という地名は江戸(東京)にもあり高田にもあり、井原西鶴の大和関係の紀行文にも「本郷あたり」という文字が見え、お七は、 その方言から、関西人であったと考証する人もいる。すると、お七は、高田の本郷か新町あたりに住んでいた女性であったと考えられる。至純の熱情に死んだお 七の物語は、郷土史の一輪の花であり、伝説に残る物語である。
八百屋お七の物語を脚色した西鶴も大阪の人であり、大阪に墓がある。この物語のモデルは高田にあった事件を江戸に舞台を移したかもしれない。
本郷町
お七の墓
伝「お七の墓」
時系列
静御前、衣掛けの松 静御前は大和高 田の宿の長者の妻、礒野禅尼の娘として生まれた。美しい娘でしたので、京都へのぼって歌舞を習い白拍子の名手となった。立烏帽子、水干、鞘巻を帯びた麗し い姿は都の人々のまととなった。源義経にかわいがられたが、兄頼朝と仲がわるくなった弟義経は追われて吉野山へかくれたときに静御前も吉野山へ来たが捕ら えられて鎌倉へ送られ、鶴ヶ丘八幡宮の社頭で頼朝や政子の前で「静や、しず、静のおだまき繰りかへし、昔を今に、なすよしもがな」と胸に涙をかくして舞っ た。静御前の妙なる舞いの名技はならびいる人々の心をうばい、政子のなさけによって静御前は鎌倉から京都に帰ることができた。ところが心つかれて病気にな り、母のいる故郷大和の高田の礒野村に帰った。春日町の笠神の森にある明神さまに病気平癒をいのり、帰る途中の一本の松の木に静御前は衣を掛けた。そこは 古墳で、いまは県立高田高校体育館の南側の運動場。もと三本松があり、三本松といっていたが、天明年間(1781~1789)に一本枯れ、昭和にも最後の 一本があった。高田の住人森田湖月が「色かえぬ 松の緑の 古墳かな」とよんだ俳句は、昭和十八年西川林之助によって碑とされたる高さ七十センチ、幅七十 センチ。
静御前は、ここから礒野の里へ帰って死んだという。いまの礒野の東北、字藤木にその塚がある。
礒野東町
礒野東町
高田にゆかりのある人たち
本市は、「郷土の偉人」と呼ばれる人達を多数輩出しています。
国学者として、また儒者として知られる、谷三山の門下であった岡本通理は、文政元年(1817年)に高田村新町たばこ屋吉兵衛の二男として生まれ、号を黄中と称し、安政5年(1858)に、岡本黄中著として世に出した『振濯録』は、『土部源流の書』とも称されて、名文を讃えられています。 織機の発明家、藤田孫太郎は 天保12年(1841年)、紀伊国(和歌山県)に生まれ、27歳の時、寺大工として、高田村専立寺門内に移り住みます。明治5年(1872年)32歳の時、「枠繰り機」を発明、明治9年には「綟り器」を、明治16年には「大型早繰機」を、明治18年には「綿フランネル撚糸機」、「縮糸撚糸蒸気機械」を次 々発明し、明治27年(1894年)には一馬力の蒸気機関を使って運転に成功しています。藤田孫太郎は最後には、「自由機」と呼ばれた自動織機をつくりだ すまでに至りますが、明治期の木綿織機の発明と工夫に大きな足跡を残した“発明人”として、忘れることのできない存在です。

中川吉造日本の河川土木事業の先駆者として、特に利根川の治水工事にその生涯をかけた中川吉造博士は、 明治4年(1871 年)、本市市町(内本町)の生まれで、内務省の内務技監としてその業績が高く評価されています。中川吉造博士が主になって設計された千葉県佐原市と茨城県 東町の県境にある「横利根閘門」は、煉瓦造りの美しい姿と優れた機能とを併せ持ち、平成12年には国の重要文化財に指定されています。今も、利根川を望む 佐原水郷公園には、博士の胸像とともに、博士の文による「利根川治水記功碑」が保存され、利根川の流れを見守っています。また、昭和7年から11年間を費 やした、高田の昭和の大工事と言える‘高田川の付け替え工事’や、昭和11年から給水を開始した水道の敷設工事にも助力を惜しまなかったことが、往時を知 る人たちによって懐かしく語られています。

文豪・宇野浩二は、 天王寺中学を卒業後、東京の大学に進学するまでの間、母が働いていた本市根成柿で半年間(明治42年10月~43年3月)、療養と勉学の生活を送っていま す。幼少の頃から大阪で祖母と二人暮らしであった浩二は、明治43年1月、祖母にせがまれ母の住む根成柿へ連れて来ますが、祖母は急死し、地元の好意によ り、根成柿墓地に葬られます。浩二、19歳のことです。宇野浩二の代表作「枯野の夢」や「思い出の記」には、この出来事や、当時の天満村や高田町の情景が 詳しく描かれています。浩二にとって、本市は終生忘れられない土地となります。

このほかにも、本市には数多くの先駆者、偉人達が輩出し、本市に大きな足跡を残しており、いついつまでも、わたしたちの心の中に記憶されることでしょう。
■ 偉人たち
  • 高木午睡庵(歌人、歌集「午睡庵」・元禄期)
  • 和田桃渓(画家、龍王宮絵馬「おかげ詣り」・幕末)
  • 梅田雲浜と妻千代子(元若狭小浜藩士、勤皇の志士、さざんかホール東側に顕彰碑・幕末~明治)(千代子・高田村の村島内蔵進の長女)
  • 中川八太郎(文芸総合雑誌「敷島」創刊・明治)
  • 野口雨情(詩人・大正)※高田に滞在時、専立寺を詠う「高田御坊の櫓の太鼓 叩きゃぼんと鳴り ぼんと響く」
  • 近藤尺天(国学者、篆刻家・昭和)
遺跡発掘調査報告
■ 池田遺跡
池田遺跡 正装した男子埴輪 馬見丘陵南端部の西側斜面や周辺の沖積地に広がる、後期旧石器時代から江戸時代にかけての遺跡です。古墳時代の生活面からは、4~6世紀にかけて築造された10数基に及ぶ前方後円墳、方墳、円墳などの古墳が、開墾によって削平された状態で発見されました。発見された古墳はいずれも規模は小さく、また水に浸かりやすいなど立地条件も悪く、見晴らしの良い丘陵の高所に造成された大型の築山古墳等の古墳とは対照的です。古墳群からは大型の鶏、盾持ち人、巫女、盛装した男子など、大型古墳にも引けを取らないほどの精巧な形象埴輪が出土しました。香芝市下田東古墳や橿原市四条1号墳など、小規模な古墳からの形象埴輪の出土例は増えてきています。


img243.jpgimg2422.jpg盾持人埴輪・盛装した男子埴輪が、中国陝西省歴史博物館(西安)で開かれた特別展「日本考古展―古都奈良考古文物精華展―」に、奈良を代表する貴重な遺物の一つとして、平成23年10月21日から同年12月19日まで出展されました。なお、今後は大和高田市郷土資料室(市内池田3 陵西小学校内 Tel0745-25-0244)で、希望者に公開される予定です(平成24年春頃)。
■ コンピラ山古墳
コンピラ山古墳 南東から 築山古墳北側の児童公園内の尾根上に築造された円墳です。 過去の調査で、直径が50メートルの円墳であること、葺石のない2段築成の墳丘であること、墳頂とテラスには埴輪列がめぐること、墳頂には盾形や家形の埴輪があったこと、周濠は存在しないこと、墳頂には大小2基の棺を納めた墓壙(埋葬主体部)が存在することなどが判明しました。埴輪から、築造時期は5世紀前半と推定されますが、コンピラ山古墳よりは時期が新しいとも考えられています。 墓壙の平面規模(最大長×最大幅)は、大きな方は10.5×3.8メートル、小さい方は6.3×2.7メートルを測ります。いずれの墓壙も盗掘を受けていましたが、盗掘坑からは鉄刀片、鉄鏃片、碧玉製の勾玉・管玉、水銀朱などが出土し、大きな墓壙の底にはコウヤマキ製の割竹形木棺の一部が腐らずに残っていました。築山古墳後円部の南西にある茶臼山古墳とともに、大型の前方後円墳に近接する中規模の円墳の実態が明らかになっていくことが期待されます。
■ かん山古墳
かん山古墳 築山古墳北側の児童公園内の尾根上に築造された円墳です。

過去の調査で、直径が50メートルの円墳であること、葺石のない2段築成の墳丘であること、墳頂とテラスには埴輪列がめぐること、墳頂には盾形や家形の埴輪があったこと、周濠は存在しないこと、墳頂には大小2基の棺を納めた墓壙(埋葬主体部)が存在することなどが判明しました。埴輪から、築造時期は5世紀前半と推定されますが、コンピラ山古墳よりは時期が新しいとも考えられています。

墓壙の平面規模(最大長×最大幅)は、大きな方は10.5×3.8メートル、小さい方は6.3×2.7メートルを測ります。いずれの墓壙も盗掘を受けていましたが、盗掘坑からは鉄刀片、鉄鏃片、碧玉製の勾玉・管玉、水銀朱などが出土し、大きな墓壙の底にはコウヤマキ製の割竹形木棺の一部が腐らずに残っていました。築山古墳後円部の南西にある茶臼山古墳とともに、大型の前方後円墳に近接する中規模の円墳の実態が明らかになっていくことが期待されます。
■ 池尻遺跡
池尻遺跡 池尻環濠集落北部に位置する、葛城川と高田川に挟まれた微高地の上に広がる縄文時代晩期から中世にかけての遺跡です。中和幹線道路の新設工事にあたり発掘調査が行われました。
調査の結果、弥生時代から古墳時代の遺構として、近畿地方で多く造られた方形周溝墓とよばれる四方に溝を掘り土を盛った墓が4基と河道が1条、奈良時代から平安時代の遺構として、井戸1基と、7~8世紀ごろに行われた条里制水田と呼ばれる土地管理制度によって規則的に区画された水田などが検出されました。遺物は、方形周溝墓と河道から多量の土師器、平安時代の井戸から瓦器椀などが出土しました。
以上のことから、調査地周辺が弥生時代から古墳時代前期にかけては墓域、それ以降は耕作地として利用されていたことが分かりました。集落跡は見つかっていませんが、集落については微高地上につくられることが多いため、池尻遺跡では調査地から南側に微高地が広がっているので、中世以前の集落跡は調査地より南にあったと推定されています。
■ 土庫遺跡群
土庫遺跡群 市街地の南部、高田川左岸に位置します。市立病院の増築工事に伴い、発掘調査が行われました。調査では、古墳時代前期の竪穴式住居2基、掘立柱建物、その住居の一端を巡って区画する溝を検出しました。竪穴式住居2基は3回から6回の建て替えが確認されており、このうちの1棟は最終に建て替えられた住居の床面から、滑石製の玉類の未製品やチップが多量に出土し、玉造工房と考えられています。溝からは、鍬や田下駄など農耕具、椅子、木樋など、多くの木製品が出土しました。また、土器については、山陰地方や東海地方の土器が含まれており、他地域とも交流があったことが推測できます。
■ 三倉堂遺跡
土庫遺跡群 大和高田市中央部周辺に位置します。昭和3年に大鉄(現在の近鉄南大阪線)の新設工事のため、三倉堂古池・新池で土砂採取が行われた際、木棺が出土したことが遺跡発見の契機となりました。新池から3基、古池から3基の計6基が出土しました。工事中に偶然発見されたため、考古学的な調査は十分行われず、現在では副葬品の大部分は散逸しています。残された副葬品については、2木号棺から出土した七鈴鏡と、古池から出土した円筒埴輪や弥生土器、須恵器があります。その他に、3号木棺から大刀・鉄鏃・馬具・須恵器と、1号木棺から須恵器が出土したと記録がありますが、現在は所在不明です。3号木棺については、年輪年代測定法と呼ばれる、年輪を観察してその木材の年代を測定する方法で時期が測定され、6世紀初頭に伐採されたものと判明しています。この他の報告で、新池からは横穴式石室や須恵器の合口甕棺が検出されたとあり、周辺一帯が古墳時代後期の古墳群であったと考えられます。
大和高田市で生まれた国民の歌
大和高田市で生まれた国民の歌 1962年(昭和37年)、内閣、総理府、電通、NHK、民放各社、新聞社、レコード会社などが協賛して、「私達の生まれ育った日本を愛するために、だれもが口ずさめる、文字通り、国民の歌をつくろう」との提案がなされました。
このよびかけに応じて、全国から2万数千点の作品が寄せられたのですが、当時、本市職員の橋本竹茂氏(42歳)は、「若い日本」を作詞し、応募したところ、西條八十、サトウハチロー、佐藤春夫の三氏が選者で、最終選考の三点に選ばれました。
これらの歌には、それぞれ曲をつけて、NHKがテレビ、ラジオを通じて全国に放送し、国民投票にゆだねられましたが、橋本竹茂作詞、飯田三郎作曲の「若い日本」は、16万2千票を獲得して、見事一位となり、「国民の歌」に選ばれました。

若い日本の記念碑と故橋本竹茂氏国民の歌決定とともに、ビクター、コロンビア、ポリドール、東芝、キング、テイチクの6社からレコードが発売され、東京の日比野公会堂では、当選者を招き、盛大な音楽会が催されて、その様子は、NHKによって、ナマ放送で、全国に報じられました。
こうして、国民の歌「若い日本」は、作詞家橋本竹茂の名とともに、全国に知られるところとなったのです。
作曲をされた飯田三郎氏の出身地(根室市)に近い、釧路市では、譜面入りの記念碑が建てられ、本市でも、1965年(昭和40年)、庁舎玄関近くに、「国民の歌・若い日本」の記念碑が建てられました。
戦後、我が国が再建、復興の途上にあったとき、希望に満ちた「若い日本」の歌が、全国に流れ、多くの国民を鼓舞し得たことは、今も、本市の誇りのひとつに数えることができます。
当時の市民体育館での発表風景当時の市民体育館での発表風景
釧路市の記念碑釧路市の記念碑
書籍・絵葉書
先史時代~現代にいたる市域とその周辺の変遷を、遺跡とともに紹介
■ 書籍販売
大和高田城物語 大和高田市に築城されていた「高田城」の歴史を高田歴史文化叢書として製本しました。 売り切れ 1996年7月発刊
大和高田商物語 売り切れ 1996年9月発刊
大和高田市常夜灯(太神宮)記録 大和高田市内に点在する「常夜灯」を調査記録しものです。調査・編集は、松並節夫氏によるものです。 売り切れ 1998年3月発刊
竹園日記(1) 天保の時代から幕末維新の動乱期にかけて、葛下郡野口村西代(現在の大和高田市野口)の真宗西連寺の住職、 竹園眞證の残したもので、この時代の状況が日記として記録されております。全国的にも貴重で、たいへん珍しいものです。この本は、「竹園日記を読む会」と いう一般の人たちによって監修しできました。 売り切れ 1998年1月発刊
竹園日記(2) 同上の第2集です。 3,000円 2001年1月発刊
竹園日記(3) 同上の第3集です。 3,000円 2002年11月発刊
【大和高田の民話】
大和高田市内に言い伝えられている民話や伝説を、絵本にしました。文は郷土の文学者 橋本竹茂氏、絵は二科会デザイン部会員 京田信太良氏によるものです。
売り切れ 1997年3月発刊
改訂・大和高田市史・前編 8,000円 1984年11月発刊 正誤表
改訂・大和高田市史・後編 5,000円 1987年3月発刊
改訂・大和高田市史・資料編 売り切れ 1982年3月発刊
大和高田市史 売り切れ 1958年発刊
■ 大和高田八景絵はがき販売中
2004年12月に開催しました「大和高田八景作品展」の作品の中から選んで絵はがきにしました。

平成14年7月、市民投票により選定しました「大和高田八景」が、本年も絵はがきになりました。 これは、「第3回大和高田八景作品展」に出品された作品を中心に作製したものです。 これからも、毎年12月に開催します「大和高田八景作品展」やなどをとおして、大和高田八景が、いつまでもふるさとのかけがえのない風景として、市民のみなさまに愛され、心に残るものとして育てていきたいと考えています。
販売場所 さざんかホール内 総合事務室
 広報広聴課(市役所3階)
販売価格 1セット(8枚組)300円
 問い合わせ:大和高田市本郷町6-36 さざんかホール内
           文化振興課
 電話:0745-53-8200(さざんかホール内)
   (月曜日、第4火曜日は休館日)
※限定販売の為、売り切れの場合はご容赦願います。
郵送による販売方法 【定額小為替による販売】
1.絵はがき代金分の定額小為替と送料分の郵便切手を、送付先及び連絡先を明記した普通便で、上記の問い合わせ先住所に申し込んでください。
※申込の前に在庫のご確認をお願いいたします。
  絵はがき分
(定額小為替相当)
送料
(切手分)
定額小為替手数料
(郵便局)
1セットの場合 300円 90円 10円
2セットの場合 600円 160円 10円
2003年版、2004年版については、在庫がありますのでご確認下さい

アクセス

大和高田市は、奈良県の北西部に位置し、特に、大阪との文化、経済的なかかわりが深いために、南北近鉄線、JR線、西名阪自動車道、南阪奈道路を利用すれば、いずれも30分余りで、アクセスは極めて至便です。
近鉄大阪線は、市の北部の「大和高田駅」へ、JR大和路線は「高田駅」へ、近鉄南大阪線は南部の「高田市駅」へ入ります。

電車でお越しの方

近鉄大阪線
大阪上本町駅~大和高田駅「快速急行」で約27分
(1時間に3本)
近鉄南大阪線
大阪阿部野橋駅~高田市駅「急行」で約30分
(1時間に2本)
JR大和路線
天王寺駅~高田駅「区間快速」で約33分
(1時間に3本または1本)

車でお越しの方

大阪から
「西名阪自動車道」の法隆寺インターから約20分
「南阪奈道路」「国道165号大和高田バイパス」から約10分
奈良から
「国道24号」で約50分

大和高田の地図

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