高田御坊界隈

更新日:2022年01月21日

文禄4年(1595年)、大和国で検地がおこなわれたころの高田村は、花内川(現中央道路)の東に中心集落がありました。のちに、“本郷”と呼ばれる地域です。その北端は大日堂と仏願寺で、東端はいまの八幡筋の手前、南端は横大路の街道集落に接していました。
花内川から西は、横大路に沿って長谷本寺があったほか、少しの民家が散在していたと思われますが、ほとんどが荒れ地でした
この花内川の西側に、慶長年間(1596~1615年)に入って、寺内町がつくられました。“寺内町”は、花内川の西側に、有井の正行寺が進出したことから始まります。慶長元年(1596年)、正行寺が年貢納入を請け負う請所としてひらかれ、年貢を有力な町年寄りに徴収させ、領主桑山氏に納められていました。しかし、正行寺は有井村に立ち帰ってしまったため、慶長5年(1600年)、正行寺跡に、西本願寺12世准如によって、
御坊(専立寺)が創建され、越前国(福井県)三国湊の専立寺四世の孫・宋清が入寺します。
寺内町は、その門前に、桑山氏が施策として商人を近郊から集め、大和の中心的な商業の町として発展させていきます。やがて寺内町に、周辺地域から多くの人たちが移り住み、店を構え、しだいに賑わいを増し、江戸時代を通じて綿花の取引を中心に発展していきます。この時代の記録によると、“奥田屋”、“御所屋”、“新堂屋”、“吉野屋”など、出身地域にちなんだ屋号が多く、広い範囲の地域から大和高田に集まったことがわかります。
商工業のまち・大和高田への歩みが、すでにこの時代から始まっていたのです。

関連事項

  • 高田御坊専立寺(表門、太鼓楼など市指定文化財・内本町)
  • 野口雨情 専立寺を詠う「高田御坊の櫓の太鼓 叩きゃぼんと鳴り ぼんと響く」

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