高田城とその時代

更新日:2022年01月21日

室町時代後期、各地に有力武士が城を築き、覇権とその勢力範囲を広げるために、各地で合戦が繰り広げられた、戦国時代と言われた時代。本市にも、高田城、万歳城、そして土を重ねて築いた小城の土庫塁城、松塚塁城、有井塁城、北角塁城がありました。
高田城は、片塩小学校の東側、常光寺池一帯にあったとされ、永享4年(1432年)、室町幕府六代将軍・足利義教の命により、当麻氏が城主に任じられています。その後、約150年間にわたり、戦国武士が群雄割拠した時代に重要な砦としての役割を果たしました。当麻為長が城主の時、城に隣接して、一族の武運長久と歴代の菩提をとむらうため常光寺を建立(1471年・旭北町)し、また、天神社の修復(1482年・三和町)、証菩提寺(現在の不動院)の建立(1484年・本郷町)もおこなっています。
万歳城は、高田西中学校一帯に位置し、「万歳氏」の居城の一つとして、二上山の南方にあった万歳山城と、現在大谷(北角)の乾城とともに、その勢力の拠点としていました。
しかし、天正5年(1577年)、郡山の筒井順慶は織田信長に大和守護に任じられ、大和一円をゆだねられると、天正8年(1580年)、諸城破却令により順慶の郡山城を除いて、大和の城はすべて取り壊されてしまいます。

「高田氏」、「万歳氏」など、それぞれ大和武士としてその勢力争いを頻繁におこしていましたが、戦国大名となることなく、戦国争乱の世に、その姿を消してしまいました。
この時代、曽大根の名称寺からも石山本願寺の顕如率いる「一向一揆」、いわゆる「石山合戦」(1570年~)に出兵し、織田信長軍と戦ったことなどからも、戦乱の時代をうかがうことができます。

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