高田にゆかりのある人たち

更新日:2022年07月24日

本市は、「郷土の偉人」と呼ばれる人達を多数輩出しています。
国学者として、また儒者として知られる、谷三山の門下であった岡本通理は、文政元年(1817年)に高田村新町たばこ屋吉兵衛の二男として生まれ、号を黄中と称し、安政5年(1858)に、岡本黄中著として世に出した『振濯録』は、『土部源流の書』とも称されて、名文を讃えられています。
織機の発明家、藤田孫太郎は天保12年(1841年)、紀伊国(和歌山県)に生まれ、27歳の時、寺大工として、高田村専立寺門内に移り住みます。明治5年(1872年)32歳の時、「枠繰り機」を発明、明治9年には「綟り器」を、明治16年には「大型早繰機」を、明治18年には「綿フランネル撚糸機」、「縮糸撚糸蒸気機械」を次々発明し、明治27年(1894年)には一馬力の蒸気機関を使って運転に成功しています。藤田孫太郎は最後には、「自由機」と呼ばれた自動織機をつくりだすまでに至りますが、明治期の木綿織機の発明と工夫に大きな足跡を残した“発明人”として、忘れることのできない存在です。

上半身の中川吉造の銅像を右斜めから撮影した写真

日本の河川土木事業の先駆者として、特に利根川の治水工事にその生涯をかけた中川吉造博士は、明治4年(1871年)、本市市町(内本町)の生まれで、内務省の内務技監としてその業績が高く評価されています。中川吉造博士が主になって設計された千葉県佐原市と茨城県東町の県境にある「横利根閘門」は、煉瓦造りの美しい姿と優れた機能とを併せ持ち、平成12年には国の重要文化財に指定されています。今も、利根川を望む佐原水郷公園には、博士の胸像とともに、博士の文による「利根川治水記功碑」が保存され、利根川の流れを見守っています。また、昭和7年から11年間を費やした、高田の昭和の大工事と言える‘高田川の付け替え工事’や、昭和11年から給水を開始した水道の敷設工事にも助力を惜しまなかったことが、往時を知る人たちによって懐かしく語られています。
文豪・宇野浩二は、天王寺中学を卒業後、東京の大学に進学するまでの間、母が働いていた本市根成柿で半年間(明治42年10月~43年3月)、療養と勉学の生活を送っています。幼少の頃から大阪で祖母と二人暮らしであった浩二は、明治43年1月、祖母にせがまれ母の住む根成柿へ連れて来ますが、祖母は急死し、地元の好意により、根成柿墓地に葬られます。浩二、19歳のことです。宇野浩二の代表作「枯野の夢」や「思い出の記」には、この出来事や、当時の天満村や高田町の情景が詳しく描かれています。浩二にとって、本市は終生忘れられない土地となります。
このほかにも、本市には数多くの先駆者、偉人達が輩出し、本市に大きな足跡を残しており、いついつまでも、わたしたちの心の中に記憶されることでしょう。

偉人たち

  • 高木午睡庵(歌人、歌集「午睡庵」・元禄期)
  • 和田桃渓(画家、龍王宮絵馬「おかげ詣り」・幕末)
  • 梅田雲浜と妻千代子(元若狭小浜藩士、勤皇の志士、さざんかホール東側に顕彰碑・幕末~明治)(千代子・高田村の村島内蔵進の長女)
  • 中川八太郎(文芸総合雑誌「敷島」創刊・明治)
  • 野口雨情(詩人・大正)(下記リンク「歌が語る大和高田音楽今昔物語」をご覧ください)
    (注意)高田に滞在時、専立寺を詠う「高田御坊の櫓の太鼓 叩きゃぼんと鳴り ぼんと響く」
    近藤尺天(国学者、篆刻家・昭和)

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