千本桜の秘話

更新日:2022年12月23日

川沿いに一定の間隔をあけて樹木が並んでいる白黒写真
川沿いの両側に咲き誇っているきれいな桜並木を写した写真

高田川 桜ものがたり

毎年、多くの人をにっこりとさせてくれる高田川畔の桜。
夏には緑の葉が、涼しい木陰を、秋には真っ赤な桜紅葉が美しい風景を作ります。私たち大和高田市民の、大きな誇りのひとつです。
しかし、最近は風格ある木に混じって、空洞になった幹が痛々しい木を見かけます。高田川の桜に、こんな歴史があったことを知っている人も、少なくなりました。

『市制を(昭和23年1月)記念して、その年の冬に、延長2キロメートルの堤防にサクラ並木をつくる計画を立てた。
サクラ苗木は、市内の町内会から、数本ずつの寄贈をうけることになってその数は千本を少し越えた。文字どおり市民のサクラ、ということになる。
サクラ苗木は、吉野山保勝会へ斡旋を依頼して昭和23年12月に植樹することになった。このまま植樹ができたらなんの問題もなかったのだが、ひとつのざ折があった。河川の堤防にサクラを植える交渉を、長いあいだかかって県とやってきたがどうしても許可できないという。従来は河川の堤防にサクラを植樹すると堤防を弱くするといわれてきたが、サクラの根の張り方からみて、植樹の位置、間隔が適当であればむしろ堤防を強くする、この論文を、知事と土木部長に提示して強く許可を求めたが、許可できないという。奈良軍政府司令官ヘンダーソン大佐に話してサクラの植樹に協力を求め。将校食堂でヘンダーソン大佐と私の趣旨説明が終わると、軍曹がボール箱でつくった寄付箱を持って食卓をまわってくれた。当時、サクラ苗木の価格は7年生、8年生、といったもので80円だった。

まず、ヘンダーソン大佐が自分と夫人の名前を書いて6本を寄贈してくれた。将校連中は、つぎつぎに自分と夫人や子どもの名前を書いて軍曹に渡してくれた。30分ほどで250本の寄贈をうけることになった。将校とその夫人、子どもの名前を書いた小さな名札をつくって苗木につけ、一挙に、250本を堤防の安全な位置へ植樹した。…250本の苗木に右へならって千本サクラの苗木を植えてしまった。
枯れたもの、折れたもの、の補植に100本程度根気よくつづけてきた。…高田川畔は、いま(昭和46年)、ヤマザクラ、ヒガンザクラ、ソメイヨシノ、サトザクラなどの多くの品種が集められて、声のない陽春の音楽をたたえているように思える。

毎年3月にはいると、「サクラの国のサクラの名所」、というポスターの中ヅリが近鉄電車の電車内に出る。吉野山の美しいみごとなサクラのカラー写真がポスターの半分を占め、あとの半分には、沿線のサクラの名所が書き出されるのが恒例になっている。ここ数年、さまざまな思いを込めて、このポスターに、興味とも注意ともつかないような私なりの関心をもってきた。

「高田川畔のサクラ」が、いつになったら「サクラの国のサクラの名所」にのるのだろうか。
そんな期待感をもっていた。「サクラの国のサクラの名所」のポスターに、本(昭和46)年になって初めて「高田川畔のサクラ」が載せられるようになった。』
-名倉仙蔵 著「人間をめぐる断想」より抜粋

(注意)名倉仙蔵 第2・4代大和高田市長

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