旧高田川五橋顕彰碑

更新日:2022年01月21日

現在、本市の中心市街地を南北に貫く、「県道大和高田・斑鳩線」、通称「中央道路」は、かって、「高田川」または「花内川」とよばれた河川跡であり、”高田”は、この河川によって、東西に分割されていて、川東の農業を主とする”本郷”と、川西の商業を主とする寺内町が、政治、経済的に対立していたことが知られています。このまちの中央部を流れていたかっての高田川は、市街地で大きく蛇行しており、大雨時には、しばしば氾濫し、大きな被害をこおむったことから、まちの発展のためには、河川のつけ替えが、長くまちの懸案となっていました。
1932年(昭和7年)から、11年の歳月をかけて、上流の東中地区から下流の神楽までの川替え工事がおこなわれ、高田川は、数百メートル西の現在の位置に落ち着いたのですが、更に、1948年(昭和23年)かには、廃川になった旧高田川を埋め立て、道路にする工事が大規模におこなわれました。
あわせて、南北の両近鉄駅の改修工事、中央立橋と国鉄桜井線の高架工事なども、相次いでおこなわれて、その後の市の発展の大きな原動力となりました。

中央道路は、現在、車両の通行量も極めて多く、かつて、河川であったおもかげは、道路が大きくS字型に蛇行している形状からうかがえる程度で、これらの歴史的事実と先人の努力を知る人も、徐々に、少なくなりつつあります。
本市の中央部に、かつて、清冽な高田川が流れ、あちこちで、緑陰が川面に影を落としていた往時の様子を、想像することは、すこぶる困難なことですが、今、改めて、残された橋の一部とともに、歴史顕彰板が設置されることによって、高田川の歴史の流れと先人のさまざまな労苦を顧みることができるのではないでしょうか。
市の中心部を流れていた高田川とそこに架けられていたいくつかの橋、そして、そこを毎日行き交っていた人達のにぎわいに、遠く、想いを馳せたいものです。

歩道沿いの好仁橋跡に設置された歴史顕彰板の写真

好仁橋

公衆電話の傍に立つ大橋跡に設置された歴史顕彰板の写真

大橋(相生)

灯篭の手前に設置された古川橋跡の歴史顕彰板の写真

古川橋

電信柱の傍に設置された、天神橋跡の歴史顕彰板の写真

天神橋

植木や樹木が植えられている花壇の中に設置された、雛倉橋跡の歴史顕彰板の写真

雛倉橋

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