市の歴史と遺跡

更新日:2022年01月21日

先史時代~現代にいたる市域とその周辺の変遷を、遺跡とともに紹介

先史時代

大和高田市の地形は、奈良盆地の西南隅に位置し、葛城山麓の扇状地が新庄町(現:葛城市)方向から高田に。そして、二上山麓から流れた扇状地が高田を経て曲川(橿原市)にいたっています。

周辺地域である二上山麓周辺に人々が住み着いたのは、紀元前二万年前頃だと考えられています。この地域は、石器を製作するに適した「サヌカイト」の原産地であり、多くの石器が出土しています。しかし、大和高田の周辺地域は、先述のとおり、扇状地に位置しており、高田川・葛城川の両河川の河道が安定しておらず、人が住む環境ではなかったと思われていました。

しかし、近年、池田遺跡の発掘により、多数の出土品のなかで、後期旧石器時代から弥生時代中期までの約2万年の期間に作られた土器、石器が3万点以上出土し、なかには関東地方や瀬戸内地方のものもあり、数万年前からこの地は東西の人々の交流が盛んだったと考えられます。

縄文時代~弥生時代

本市には、奈良県遺跡地図による指定が約100か所以上あり、その内の4分の1ほどが、発掘調査報告されています。縄文から弥生時代は、高田川・葛城川の周辺地域は、水田の耕作に適した地域であったと考えられ、今後の調査で、新たな遺跡が発見される可能性があります。

縄文時代~弥生時代の発掘遺跡の詳細
池尻遺 方形周溝墓、河道、井戸、堀立柱建物。縄文土器・弥生土器・古式土師器・須恵器等出土。 縄文晩~中世
礒野北遺跡 大和高田市立病院建設地。縄文時代の住居跡。石器・古式土師器・瓦質土器等出土。 縄文~平安
柿ノ内遺跡 堀立柱建物、河道。縄文土器・土師器・須恵器等出土。 縄文後~中世
有井遺跡 有井集落の東南に位置する灌漑用溜め池を中心とした弥生中期?後期の遺跡。昭和8年5月に発掘調査。壺・高杯・石斧・土錘など出土。集落跡と考えられる。 弥生中~奈良
西代遺跡 大和高田市の西端、西代の集落南側の溜池から出土。土器及び土器片。 不明
出屋敷遺跡 西代遺跡の東方の出屋敷池より石斧や石鍬が出土。 不明
神楽遺跡 近鉄大阪線北方。溜池より有孔砥石が出土。 不明
三倉堂遺跡 高田市駅(近鉄南大阪線)南方の溜池より、古墳時代後期の木棺と同時に弥生土器片が発見された。 弥生前~中世
藤森遺跡 集落跡。弥生土器、須恵器等出土。 弥生前~古墳後

古墳時代~中世

弥生時代後半ごろになると、米作りの規模によって貧富の差が生まれ、支配するものと支配されるものとが生じた。これらの集団が集まり、村やクニへと発展していきました。そして、小国家群が併立し、有力豪族の力により国家へと統一なったと考えられています。
大和高田の地域は、奈良県内でも有数の古墳群を形成している「馬見丘陵古墳群」の南端にあたり、近年、公共施設の建築にあたって、全国でも珍しい埴輪(武人形埴輪、盾持ち人埴輪)が出土しており、今後も新しい発見が期待されています。

中世には、多くの環濠集落が形成されました。とくに、大和平野の中心部には濠(堀)に囲まれた集落が多い。水利と村落防衛のために造られたと考えられます。大和高田市内にも多くの環濠集落が残っているが、水利の変遷や住宅開発などにより姿を消しつつあります。
中世、大和高田市一帯は「葛下郡」とよばれ、二千町歩を超える奈良興福寺一乗院平田荘の荘内にありました。
室町時代には、当麻高田氏によって「高田城」が築城されます(伝・1432年)。1580年、織田信長の破城令によって取り壊されるまで、約150年のあいだ大和武士としての勢力をふるいました。当時の高田城は絵図から約二町四方の広さで、正面を西に開き、東を搦め手(からめて)として堀の中に二重の城壁で囲まれた平城であったとされます。

慶長年間(1596~1615)には花内川(現:県道5号線・通称中央道路で旧:高田川) の西側に寺内町が作られました。この地に有井の正行寺が進出したことから始まります。その後、正行寺は有井に帰ってしまったため、慶長5年(1600年)西本願寺12世准如によって御坊(専立寺)が創建されました。その門前に桑山藩が施策として商人を近郊から集めて商業の町として発展させていき、綿花の取引を中心に発展していきます。「商工業のまち・大和高田」への歩みがこの時代から始まっています。

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