伝説・民話

更新日:2022年01月21日

高田にまつわる伝説や民話

本文は、改訂「大和高田市史」から引用しました。
赤色文字の大和高田の民話は、伝説を絵本にして発行しています。(書籍販売を参照)

大和高田市のホームページにも「大和高田の民話」の一部が登載しています。

楠の霊木

むかし、江州(滋賀県)に大きな楠があった。光をはなってよい香りをしていたが、大雷雨にあって大津の里へ流された。それが流れ流れて大和の新庄まで廻転移動してきた。
聖武天皇の御夢に、この木のことがあらわたので、道慈という僧に命じて、霊木を加持させ、仏土稽文会主勲(ぶつどけいぶんかいしゅくん)という仏師に十一面観音の聖容を彫刻させられた。そしてその末木で作ったのを初瀬の長谷寺へ、本木で作ったのを長谷本寺(大和高田市南本町)に納め、中木で作ったのを北花内新庄町の観音寺へ、残り木は大和海知の長谷寺、鎌倉の長谷寺へ観世音菩薩として安置されたという。

場所

南本町
長谷本寺

奥田蓮池のひとつ目の蛙

役行者の母トラメ(刀良売)が奥田の蓮池で病気を養うているとき、夏のある朝、トラメが池の中にまつってある捨篠(すてしの)神社に詣でると白い蓮の花が咲いていて、葉には金色に光った蛙がいた。トラメは1本の篠萱(しのかや)を引き抜いて、蛙に投げると、蛙の目にあたって片目になった。池の中ににげた蛙は、もとの土色の蛙となって浮いてきて、五色の露も消えてなくなり、一茎二花の蓮も、もとの蓮になってしまった。しかも池の蛙はそれから一つ目になった。トラメはそれから重病になり四十二歳で死んだ。母をなくした役小角は発心して修験道をひらき吉野山にわけ入り蔵王権現をあがめ、蛙を祭って追善供養をした。以来、毎年七月七日に吉野の山伏が行者堂に来り、香華を献じ、蓮池の蓮108本を摘み、吉野山から大峰山間の沿道の堂に供えている。(絵本:大和高田の民話「捨篠池の一つ目蛙」)

場所

奥田「捨篠池の一つ目蛙」の民話が描かれた写真

奥田
捨篠池

役行者の母の墓

役行者の母は、いまの奥田の善教寺のあたりに住んでいたのである。それで土を盛った墓がこの町の北、秋吉と奥田との間にあって、もと木の墓標が立ててった。はじめ二坪ほどであったが最近は石塔が立てられて四坪ほどに大きくなった。役行者の両親にはじめ子がなかったので、毎日神仏に向かって子供を授けて下さるようにお祈りをすると、ある日、母が天から金のドッコ(独鈷)がおちてきてそれを飲んだ夢をみた。それからはらんで子ができた。それが役行者であった。いまの行者堂のあたりに住んでいたといわれている。

場所

田んぼのあぜ道の一角に墓がある写真

秋吉
刀良売の墓

役行者産湯の井戸

奥田の善教寺の本堂前の右側、つまり北門を入ったすぐ左側にサクラの木がある。もと役行者産湯の井戸の跡という立札を建ててあったが今はない。この辺りに井戸があり、役行者の母が産湯の水を汲んだところといわれている。役行者の母トラメはこの寺の境内にすんでいたといわれている。
舒明天皇の六年(六三四)正月元日、捨篠神社にトラメが安産をいのっていると、ふしぎや池の中からホラ貝のふえの音が聞こえてきた。姙褥の体に出産の近いのをさとって、かたわらの井戸水をくみ口をすすぎ、ふたたび神さまを拝んで家に帰ると、たちまちに一子が生まれた。角麿という父の名の一字をとって小角(おずぬ)と名づけた。このときの産湯は、今、善教寺にある古井戸だといわれている。

場所

お寺の一角に立つ樹木の写真

奥田

不動院の鐘

むかし、本郷の不動院に鐘があった。年貢の犠牲になって郡山の高田口の寺へ売られた。するとそこの和尚は毎晩のようにふしぎな夢をみた。「ここから高田の不動院が見えないから、もっと高いところへ移してくれ」と強要した。鐘は道具屋の世話で山城の加茂の高田へ売られた。するとここでも和尚は夢をみた。「高田はよかったが、だんだん遠くなり奈良の山がさえぎって大和の高田の見えないのは残念、もっと高いところへ移してほしい」というので、和尚も薄気味悪くなり檀家に喋って、鐘銘を削り取って供養することになった。魂をぬかれた鐘は、ずんべらぼうになって、ならすとよい音をひびかせるようになった。
(絵本:大和高田の民話「故郷恋しと泣いたつり鐘」)

場所

本郷町
大日堂(重要文化財指定)

有井の弘法井戸

有井町にある。磐園(いわその)小学校の西南の方、道路に面している。通称は「弘法井戸」で弘法大師が掘ったと伝えられている。井戸は石造枡形の井筒があり木製のフタをしている。小堂を設けて保存している。

清水井戸弘法大師御詠歌
「ありがたや清きわき出しかぢの水こうぼうだいしはあらたなりけり」

 弘法大師の有り難い井戸があるということでこの土地(むら)のならすとよい音をひびかせるようになった有井とした。道は南北に走っているが、井戸の西方に「道場」という地があって弘法大師が建立した仏堂があったと伝えられている。
(絵本:大和高田の民話「水がわいた」)

場所

道路に面したお堂の写真

有井

雷のおちない寺

むかし、奥田の善教寺の井戸に雷がおちた時、そばで水をくんでいた人が、井戸にフタをし、雷をばとじこめてしまった。困りはてた雷が「もうここへは落ちないからフタをあけてくれ」とたのんだので、フタを取ってあげると、雷は「ここへ落ちるまい」と約束して天へ昇ったという。それでこの寺の山号を興井山と名づけたという。

場所

奥田

雷の落ちないところ

神楽町に八頭神社があった。これは後に勝手神社に合併してしまった。合併するまでの、むかしのことだが、この付近に雷がおちた。村の人たちが、金だらいをさげて遠まきにしてかこんだ。そして金だらいで雷を押さえた。雷は「ふたたび、ここにはおちない」と誓ったので、村人は相談の上で、その雷をゆるしてやった。それから神楽には雷がおちないという。これと同じ伝説は横大路の西福寺にもある。(絵本:大和高田の民話「つかまえられた雷」)

場所

神楽

カヤドウ(茅堂)

田井と勝目との中間に塚がある。笹が生えていて古墳のようであるが、方形の石塔もあり仏像が刻まれており、明治のころに鋳仏も出ているので地名の茅堂から堂跡とおもわれる。ここはむかし嫁入りが通らなかったという伝説がある。
(絵本:大和高田の民話「花嫁の通れない道」)

場所

石碑に囲まれた塚の写真

勝目

吉井の流れ地蔵

住吉川が洪水したとき、石地蔵が一躯流れついた。村人が見つけてこれを祀った。これが吉井地蔵で、子どもの病気には霊験があるといわれている。この付近を地蔵前といっている。
また葛城川が出水してとき、東の堤防に石地蔵が引き上げられた。線香の火で口もとをかわかしてまつって、これを「歯病地蔵尊」とよんでいる。
(絵本:大和高田の民話「川流れ地蔵さん」)

場所

吉井

曽大根のサイカチ

曽大根の南の端の川岸にサイカチという大木がある。夏に黄白色の花が咲く。むかし、この近くを通ると小蛇が出てきたのでカゴでよけようとしたら、たちまち大きな蛇になって襲いかかってきたので家に逃げて帰って、その夜から高熱で臥したという。またある人が、このサイカチの根を切ったところ二、三日して急に死んだという。いま白竜大神をまつって神慮をなぐさめている。
(絵本:大和高田の民話「さいかち娘」)

場所

舗装された道路沿いに立つ大木の写真

曽大根

八百屋お七

井原西鶴の「好色五人女」にかかれている悲恋の女、八百屋お七の物語は、もと高田の本郷に起こった事件を、江戸に移し替えたという言い伝えがある。江戸の方の話は、天和二年(1682)十二月二十六日未(ひつじ)の下刻(午後三時)牛込の大円寺から火事があり、そのとき、お七一家は焼け出され、円乗寺に仮寓した。このとき、寺小姓の山田佐兵衛と契り、のちに、吉三郎にそそのかされて、佐兵衛に会うために放火したということになっている。年もあらたまり、「八百屋の一人娘が火をつけた」といううわさが立ち奉行所は、お七なる娘を召し捕らえて、放火の一さいを白状させた。放火犯は火あぶりの極刑の罪に服した。それが翌三年の三月二十八日、お七は、わずか十六であった。お七のあわれな最後に現世の望みを失った吉三郎は、ほどなく出家して高野山へと仏の道をたどっていったという。小石川の円乗寺にお七の墓と碑がある。江戸の女として歌舞伎に、文楽にうたいあげている。
こちらの高田の方は常光寺には、お七の数珠を秘蔵し、その親玉には「享保十年(1725)十月十四日しち菩提」の銘がある。同寺の享保年間の過去帳には死刑囚三人を追悼した記録も残されており、その中に「しち」という名が見える。また、八幡宮の西側には、お七川が流れ、この水をぬると、早く治るという言い伝え知る人も多い。「本郷」という地名は江戸(東京)にもあり高田にもあり、井原西鶴の大和関係の紀行文にも「本郷あたり」という文字が見え、お七は、その方言から、関西人であったと考証する人もいる。すると、お七は、高田の本郷か新町あたりに住んでいた女性であったと考えられる。至純の熱情に死んだお七の物語は、郷土史の一輪の花であり、伝説に残る物語である。
八百屋お七の物語を脚色した西鶴も大阪の人であり、大阪に墓がある。この物語のモデルは高田にあった事件を江戸に舞台を移したかもしれない。

場所

お墓の片隅に立つ小さなお墓の写真

本郷町
伝「お七の墓」

静御前、衣掛けの松

静御前は大和高田の宿の長者の妻、礒野禅尼の娘として生まれた。美しい娘でしたので、京都へのぼって歌舞を習い白拍子の名手となった。立烏帽子、水干、鞘巻を帯びた麗い姿は都の人々のまととなった。源義経にかわいがられたが、兄頼朝と仲がわるくなった弟義経は追われて吉野山へかくれたときに静御前も吉野山へ来たが捕らえられて鎌倉へ送られ、鶴ヶ丘八幡宮の社頭で頼朝や政子の前で「静や、しず、静のおだまき繰りかへし、昔を今に、なすよしもがな」と胸に涙をかくして舞った。静御前の妙なる舞いの名技はならびいる人々の心をうばい、政子のなさけによって静御前は鎌倉から京都に帰ることができた。ところが心つかれて病気になり、母のいる故郷大和の高田の礒野村に帰った。春日町の笠神の森にある明神さまに病気平癒をいのり、帰る途中の一本の松の木に静御前は衣を掛けた。そこは古墳で、いまは県立高田高校体育館の南側の運動場。もと三本松があり、三本松といっていたが、天明年間(1781~1789)に一本枯れ、昭和にも最後の一本があった。高田の住人森田湖月が「色かえぬ 松の緑の 古墳かな」とよんだ俳句は、昭和十八年西川林之助によって碑とされたる高さ七十センチ、幅七十センチ。
静御前は、ここから礒野の里へ帰って死んだという。いまの礒野の東北、字藤木にその塚がある。

場所

草むらに設置された石碑の写真

礒野東町

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